24
ケンジは昼下がりに、ホテルから外出して、リンダのアパートへ立ち寄った。
別に用事がなくても、なんとなく訪れてしまう状況というものが、人間にはある。
本当はさっさとチェックアウトしてウインドベルに帰りたかったが、あの野獣みたいな警部補をほったらかしにする気になれなかったのだ。
リンダたちのアパートは、昨日と違って賑やかだった。
駐車場にトラックが止まり、荷物を運ぶ男たちの姿が目についた。
「何をしているんですか」
ケンジは訊いた。男たちのうち、タバコを吸っていた年配の男が「引っ越しだ」と大声で怒鳴った。
男に酒が残っているのに気づか
なかったら、あやうく怒鳴り合いになりそうだった。
それくらいでかい声だったのだ。
「ウインドベルへ帰るのよ、明日」
アレンがいつの間にか、ケンジのそばに来ていた。
「帰るって、昨日はそんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「昨夜、決めたらしいの。あの人は気まぐれな性格なのよ」
アレンが指した階段近くに、リンダが立っていた。
彼女は引越しの荷物が、男たちの手によって痛むのを、怒りの眼差しで見つめていた。
やがて荷物から目が離れ、その視線は男たちに注がれた。
そして耳をつんざく金切り声で、文句を言い出した。
たぶん専門の業者ではなく、安い便利屋に頼んだのだ。
ケンジはそんな場所に居合わせた自分が不幸に思えた。
用事もなく気分次第で出掛けた時に限って、こういう不幸にめぐり合う。
「どういうことか、説明してくれないか」
ケンジはアレンに訊いた。
「職場のハラスメントが原因らしいのよ。上司にセクハラを受けたと、ママは言っているけど、本当は」
「セクハラ?」
「嘘だと思うわ。たぶん、ボーナスが貰ったからだと思うの」
ううむ、ボーナスの方が説得力あると言える。
「それにね」
アレンは背中に隠していた手紙を見せた。
「私たちの両親は、離婚は無理みたいね。ママったら、こんなものを書いていたのよ。セクハラだの、ボーナスだのって言って
いるけど、本音はこれを読めばわかるわ。力作だから送ればいいのに、ドレッサーにしまったまんまなのよ。ああ、やってられない。読んでみる?」
ケンジは手紙を読んだ。
ダイソーとかに売ってある、可愛らしいレターセットだ。
「サム、お便りありがとう。
私も昔のあなたよりも今のあなたが大好きなの。
よく読んでみると、随分私のことをけなしているけれど、手紙が来るとは思いもしなかったから、正直言って嬉しいわ。
…ところで…
『君が望んでいることが理解できていなかった』ですって!……。
それじゃ今は理解しているのね。
本当かしら。
その『理解できて』という文章の具体的な説明を、今度送ってくれる手紙に書いてくれないかしら?
冗談よ、サム!怒らないでちょうだい。
でもせっかくだから、私から説明するわ。
あなたは良い夫だったわ。
だけど、あなたが私に好かれようとしてやってくれることは、残念だけど何ひとつ気にいらなかった。
危ない仕事でお金を稼ごうとしたり、自分の過失を誰かに押しつけるようになったり……。
あなたは私の前で、自分を少しでも大きく見せようと必死だったわ。
私はそんなことどうでもいいのよ。
尊敬して欲しければそう言えばいいし、何か気にいらないことがあるなら、そう言って欲しかった。
でもあなたは何も言わずに、いつも不機嫌だったわ。
私はあなたが浮かない顔をしているのが嫌だった。
私が好きだったあなたは、物事がうまくいかなくて悔しがったり、泣きそうな顔で怒鳴ったりしていた青年だったのに……。
いつからそんなふうになったの?
ウインドベルを離れてから、私は特にそう思うの。
ねえ、教えて。
私と生活することで、あなたが失ったものは何だったの。
私はあなたが何をしたがっているのか、結局分からなかったわ。
あなたは私と一緒になって、何か夢を捨てたというの。
怒らないでね、サム。
そういう私も、自分のことしか考えていなかったのよ。
あなたの夢を知ることによって、私は自分が孤独になるのが怖かったのかもしれない。
でも、今は思うの。
もっとあなたの話を聞きたかった。
変てこな夢でもいいわ、聞かせて欲しかった。
知らず知らず、私はあなたを無視していたのかもしれないわね。
今となっては、自分でも恥ずかしくなるくらい、笑える話だけど。
エミリーは元気?チェインバーグに来てから、私はそのことが気がかりなの。
十七歳にしては痩せっぽちだから、しっかり食べさせてあげて。
それからアレンをこちらに連れてきたことは後悔している。
あの子ったら、帰りたいって言ってきかないのよ。
あなたとは気が合わないみたいだから、連れて来たんだけど、ウインドベルへ帰りたいって、泣いて言うのよ。
…サム、どうしよう。
愛するサムヘ
リンダ・フックス」
「何だ、マスターは文通していたのか」
ケンジはにんまりした。今時、文通だとさ。
アレンは笑った。
「あの男はあんなゴツイ顔してて、文通なんかしていたのか」
「違うわ。パパは手紙なんか書いていないわ。ママの一人芝居よ」
そうだろうな、今時分、メールやLINEで事足りるもんな。
「こんなすごい手紙を書けるのに、どうして離婚沙汰になんてなるんだい」
「こんなこともこれで終わりよ。結局、ママはパパが一番好きなんだって分かったと思うわ」
「そりゃそうだろうけど」
「昨夜、ママに言ったのよ。パパは迎えに来ないだろうけど、いつまでも待っているはずだって。通算十五回目の説得よ」
「納得してくれたのかい」
「素直な反応はなかったけど、結局帰ることに決めたわ」
「それがいいよ。サムも喜ぶさ」
そしてついに、リンダの怒声が聞こえてきた。
引越し屋がドレッサーの鏡を割ったのだ。
段ボールか毛布で梱包して運ばないからだ。
リンダのものすごい剣幕を見たくなかったので、ケンジはそのままアレンに別れを告げた。
引越しは、専門業者に正規の料金を払った方がいい。
つづく
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